アジアの好奇心~KajengKliwon
アジア(とりわけ島)はなぜ好奇心をかきたてるか?その疑問を追究したいと思います
ブログ内検索

気になるワードで検索ください

ex)ヴァルター・シュピース

カテゴリー

★ブログランキング参加中。何か感じたらクリック下さい!

★こちらもよろしくお願いします
ブログランキング・にほんブログ村へ
★コメントもよろしく!!

最近の記事

ブログ全記事表示

全ての記事を表示する

プロフィール

trance trance

Author:trance trance
アジアに惹かれるこの感覚をネット上のメディアなども使って具体化、普遍化させるべくブログに取り組んでいる。目標300記事。

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

勝手リンクです。ご不都合な方はお手数ですがメールフォームよりご連絡下さい。

月別アーカイブ

RSSフィード

スポンサーサイト
--/--/-- --:-- [--]
category:スポンサー広告
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

trackback --  comment --
本質を全体としてとらえる★Book022
2008/09/17 02:03 [Wed]
category:Book
あちこちに話題が飛びまくってしまい、久しぶりにバリ島の話も書きたいのだけど・・・

さて、バリ島の世界観はガイドブックにも次のように書かれている。

家ごとの祠も、寺院の境内の重要な祭壇も、すべて山の方角に立つ。山の頂に神が住まい、海には魔物が徘徊するという、バリの方位感を映したものだ。聖なる山の方角はカジャ、不浄なる海の方角はクロッドと呼ばれ、山の方角は具体的には霊峰アグン山へとつながり、その山麓にはバリ・ヒンドゥー教の総本山ブサキ寺院が立つ。(引用:『ポケットガイド バリ島ボロブドゥール』JTBパブリッシング/2004年) 



Pura Besakih 20010623

言い方に多少の違いはあっても、ほとんどのバリ本に書かれている解説だ。しかし、この説明、個人的には一度もストンと心に落ち着かず、好奇心をぶち壊す説と常々思っている。アグン山のビジュアルの迫力はそりゃすごい。何度も噴火して災害をもたらしたので、バリ島民にしてみれば怖れる自然。アグン山に機嫌を損ねられては困る。四方を海に囲まれた島だから、海も怖れる自然だ。腑に落ちないのは、この自然への生理的、物理的な怖れが方位感とごっちゃになっている、あるいはされたように思うところ・・・なのかな?

河原にできた
『河原にできた中世の町―へんれきする人びとの集まるところ―』
網野善彦・文/司 修・絵  岩波書店(1988年)

河原に中世の町ができていく過程を、網野善彦氏の選び抜かれた言葉と子どもなら泣き出しそうなほど畏怖の念を抱かせる司修氏の絵巻物風の絵で綴った歴史絵本。差別、被差別精神の成立過程という重要なテーマも背景にあるので、なかなかむやみに取り上げられる作品ではないのだけど、怖れながら・・・

<古代の中洲と河原>
人の生活がはじまります。人の力のおよばない自然の世界と人の住む世界。中州や河原はその二つの世界の境にあると考えられていました。そこは、あその世とこの世の境でもありました。そして虹は二つの世界を結ぶかけ橋でした。
<鎌倉時代の踊り念仏>
踊りや芸能、大声の念仏や鐘・鼓の音などは、神や仏をよろこばせるものでした。そして多くの人びとの心を揺り動かし、神や仏の世界に人びとを導く力を持っていました。河原は芸能の行われるところであり、その芸能に対してよせられた人びとの米や銭は、神や仏のものとして、貧しい人びとに施されました。(本書より引用)


この河原に町ができるという発想、真偽は別として、妙にストンと心に落ち着くのはなぜだろう?

で、何が言いたいのかがまた良く分からないことになってきたが・・・
とりあえず今回は同書の付録に掲載された「画家の目 歴史家の目」という両氏の対談の網野氏の言葉より。

自然と自らを対置する人間の本来のあり方と、人間も自然の一部にすぎないという本質を全体としてとらえないと、怖いことになると僕は思っているんです。最近の人間軽視の風潮もこういう問題に関係があると私は思います。



この話題もまた後日。
スポンサーサイト

タグ : バリ島 網野善彦 司修 芸能

trackback --    Comment(0)
この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。